「国際生活体験」と「砂糖カエデ」

 大越義久さんは、EIL活動が日本で始まった初期、1963年長野地区にてホストファミリーとなり、翌1964年米国大陸横断プログラムリーダーとして参加。以来60年近くを経た今も往時の体験生、そしてホストファミリーとの交流が続き、まさに1人1人の友情が世界平和をもたらすというEIL精神を具現化なさっています。その象徴として「メープルトリー(砂糖カエデ)」を長野全県に広める運動を帰国来続けて活動されています。


 今回、ご自身とEIL活動の歴史について文章を寄せてくださいました。日本におけるEIL活動の歴史の一端を知る内容となっています。ぜひお楽しみください。

1.国際生活体験運動について

 国際生活体験運動は、創始者ドナルド・ワット博士により、1932年に米国で誕生し、日本では1957年に、石川県金沢市で始まりました。長野では、金沢に続いて、1959年7月、アメリカの学生グループを受け入れ(入国プログラム)たことからこの運動が始まりました。当時、事務局を長野市商工部観光課内に置き、国際生活体験長野地区委員会が組織され、その運営にあたりました。

 当初はアメリカからのグループ(1グループ約10名)を受け入れ、その後、フランス、スイスなどの国々からも、体験生が毎年長野にやって来ました。一方、出国プログラムは、1962年から始まり、毎年数名(4~5名)の参加が続きました。


 1963年、我が家では、アメリカの体験生を受け入れることになり、7月初旬、ロスアンゼルスから、クリスティーン・マイナード君(18才)がやって来ました。私の妹と同年令でしたので、また、非常に積極的な方で、直ぐ日本の生活にも慣れ、思い出に残る有意義なひと夏を過ごすことになりました。

 私自身は1964年の7月初旬より9月下旬の約3ヶ月間、アメリカ訪問グループのグループリーダーとして訪米することになりました。この時、長野市議会議員で、国際生活体験長野地区委員会の主要メンバーである、善光寺教授院の林純勝住職(※1)より「砂糖カエデ」の種を持ち帰ってほしいとの依頼がありました。


2.砂糖カエデの苗とホストファミリー

 1959年、林さんは米国バーモント州ブラトロボローのEIL本部と、パットニーのドナルド・ワット博士(EIL国際生活体験運動の創始者)のご自宅を訪ねた折、長野の飯綱高原の景色にそっくりな、このパットニーの地に多く自生する「Sugar Maple(砂糖カエデ)」の木に出合いました。元々、極寒の地に育つ木で、長野の平地への移植は無理としても、もしかすると、飯鋼高原なら根付く可能があるのでは、とお考えになり、以来、機会あるごとに砂糖カエデの種を手に入れては蒔いたものの、どうしても芽が出ませんでした。こうしたことから、1964年に渡米が決まった私のところにも、種の話がきたのでした。

 

 私のホームステイ地はミネソタ州ミネアポリスの郊外のワイザタで、約1ヶ月間お世話になりました。到着後暫くして、ご主人のサンドバルトさんに砂糖カエデの種の話をした処、庭の入口近くにある5メートル程の木がその木だとのことでした。ミネアポリスは、冬には零下20度、30度にもなる極寒の地で、家の庭木などとして「砂糖カエデの木」が多く植えられており、また、「メイプルシロップ」も、広く出回っていることが分かりました。

 8月の終り、私がホームステイを終えて、いよいよ日本に帰る数日前に、サンドバルトさんが、「日米友好の印」に、日本に持ち帰るようにと、1メートル80センチ程の苗木5本を私に下さいました。突然のことで驚きました。サンドバルトさんご夫妻のありがたいご好意と、ミネアポリスから長野への約1ヶ月にわたる旅の途中で受けた、大勢の方々からの心温かいご支援と、毎日少しずつ根に水を入れて約1ヶ月、よくぞ長野の地に根付いたものだと驚きの外ありません。ミラクルそのものだと思います。

 1964年9月の移植は、北米大陸から「砂糖カエデ」の木が日本に根付いた史上初めての記念すべき出来事です。

その後1965年、カナダ大使がこの同じ砂糖カエデの木を長野県に寄贈し、長野県の議員宿舎の庭に植えられたことが、当時の信濃毎日新聞に報じられておりました。




3.ミネアポリスからロスアンゼルスへ -苗木とともにバスの旅-                 

 1964年8月の末、「米日親善、友好の印」として、サンドバルトご夫妻から頂戴した5本の「砂糖カエデの苗木」を胸に、私はミネアポリスのバスターミナルから、グレイハンドバスに乗り込みました。本当につらい別れで、一番末の子、レイチョ―が泣いていたことを、今も覚えています。 バス、スーシティー、シャイアン、ララミーを通り、ソルトレイクシティーに到着しました。同市には、太平洋戦争中、日系人が集められた収容所があり、戦後、そのままこの町にすみ着いた方が多く居られ、日系人の多い町で、仏教寺院が沢山ありました。

ソルトレイク市はモルモン教の一団により発展した街で、モルモン教の本山、大モルモンテンプルの参詣、世界一のパイプオルガンを備えた音楽堂で、ユージン・オルマンディーが指揮するモルモン合唱団の練習風景を参観することができました。

 ソルトレイクは塩の大海でした。又、ユタ大学は素晴らしい大学でした。4日間の滞在に別れを告げ、次の目的地、ラスベガスに向かって、再び、グレイハンドバスに乗り込みました。(私達は当時99日99ドルという外国人に向けの特別バスチケットで、旅をしました)

 様々な形のサボテンが広がる砂漠を通り抜け、バスはラスベガスに到着、早速、観光案内所で宿を探してもらい、ターミナルに近いモーテルを紹介してもらいました。


 5本の木は、根をポリ袋の土で囲い、毎日少しずつ水を加え、心配無く生きている様子でした。ラスベガス滞在も終わり、ロスアンゼルス行きのバスに乗ろうとバスターミナルへ行くと、バスに乗るために集まった人達からしきりに声が掛かるようになり、不思議でした。


 “この木は何の木、どうするの…”

 “日本に持って帰って植えるんです”


 1人のお年を召したおばあさんが近づいてきて “幸運を祈るよ” と声を掛けてくれて1ドル銀貨を私に手渡して下さいました。私本人は何のことさっぱり分かりません。只、よくお礼を申し上げ、有難く頂戴したことでした。尚、この銀貨は、今も大切にしまってあります。

 いよいよバスは動き出し、ロスアンゼルスに向かって走って行きます。そして、バスが、ユタ州からカリフォルニア州に入る時の事でした。目の前に有料道路の料金所の様な、広いチェックポイントが見えてきました。1台1台車を停止させて、何かをやっています。バスの乗客の1人の方が、カリフォルニア州には果物や植物などを持ち込ませない、車の中や鞄などの持ち物を厳しくチェックして、全て没収すると教えてくださり、ラスベガスでの出来事の意味が、これでやっと分かりました。チェックポイントでバスが停止し、検査官が二人バスの中に入って来て、乗客一人一人の荷物を調べ、果物などを全て没収し、いよいよ私の処にやって来ました。そして、私の大切な木を取り上げていこうとしました。そこで私は検査官に食い下がりました。

                 

“私は日本人です。この木は、日本に持って帰るのです。カリフォルニア州は只、通過するだけで、カリフォルニア州に植えるのではありません。”

“この木はミネソタ州の木で、ミネソタは防疫のしっかりした州で、この木には、病気や害虫が付いていないよ。”

“この木は、米日友好の印にアメリカの家族から頂いたものだ。”

“パスポートと日程表を見てくれ、私は、アメリカと戦争した国の者、日本人だよ。”

“君には、これは木に見えるけれど、これはアメリカ人の友好の心なんだよ。”

“君も、アメリカ人だろ、アメリカ人がアメリカ人の温かい友好の心を取り上げるのか。”


 こんな話をして検査官に食い下がっていましたら、バスの中の乗客から、期せずして拍手が沸き起こりました。これには検査官も困った様子でした。握った手を放して、バスから降りてしまいました。 


 ロスアンゼルスでは、我が家で受け入れたクリスティーン マイナード君のお宅で、1週間程お世話になりました。お父上はトランス・ワールド航空(T・W・A)の元エアーパイロットで、1964年当時はすでにリタイアーされており、1年の半分はカリフォルニアに、また半分は世界旅行という生活をされており、ロスアンゼルス地域に不動産を多数所有し、その管理は管理会社に委ねて、悠々自適の生活をされておりました。

 滞在中は、ロスアンゼルスの市内見学、当時まだ開店したばかりの大ショッピングセンター、ディズニーランド、ナッツベリーファーム、ハリウッド映画の撮影所見学(生憎、マイナードさんの友人、西部劇俳優のジョン・ウェインさんにはお目に掛かることが出来ませんでした)や、ウェルカムパーティーを開いて頂いたり、有名レストランでご馳走になったり、大歓待を受けました。


 夢のようなロスアンゼルス滞在も終り、フレズノへ行くことになりました。途中バスの中で行き会った日系の女性にホテルを紹介して頂き、フレズノの日本人街の「オリエンタルホテル」に宿を取りました。ここは全く醜いホテルで、メキシカンの季節労働者の宿で、部屋の鍵も壊れていて、何とも物騒なホテルでした。二泊したのですが、朝4時にホテル中に大きくベルが鳴り、農場から迎えに来たトラックの荷台に乗り、第一陣の連中が出て行き、次は5時にまた大きなベルが鳴り、どさどさと第二陣の連中が出て行きました。農場へ、カリフォルニア葡萄の実を摘む労働者だとのことで、後に残った連中は、その日はあぶれた連中で金は持たねえとのことで、酔っぱらって喧嘩するは所かまわず小便はするはで、これでは日本人街がよくなる筈がありません。まともな人が寄り付かない、当時の日本人街はそんな所でした。アメリカ社会における日本人の地位が低かったのですから仕方なかったと思いました。

 フレズノを後にし、全員の集合場所、サンフランシスコに到着しました。 全員無事集合したことを確認し、一緒に街の見物をし、フィッシャーマンズワーフで食事したりしてサンフランシスコ滞在を有意義に過ごし、いよいよホノルル経由で日本に帰ることになりました。


4.ホノルルから日本へ -ダニエル・イノウエ氏のご厚情-

 3ヶ月近いアメリカ本土滞在を終え、私たち一行はホノルルに向かって機上の人となりました。そして、ホノルル到着間近になりますと入境のための様々な書類が手渡されます。その中に、果物や植物に関する申告書がありました。書類に目を通してみますと、ハワイもカリフォルニアと同じで、一切の果物や植物を持ち込ませない、全て没収される様でした。今回はカリフォルニアのインスペクションの様にはいきません。残念ですがもうこれ迄と諦め、書類に正確に記入せざるを得ませんでした。飛行機がホノルルに到着し、係官の処に行きますと、いとも簡単に、大切な木は、書類と一緒に取り上げられてしまいました。やっとここ迄持ち堪えて、あともう一息という処で、取り上げられてしまいました。

 残念、悲しい、辛い・・・そんな気持以前の、大事にしてきた木を遂に取り上げられてしまった・・・遣る瀬の無い気持になりました。空港のロビーを通り抜け、外に出て全員を一ヶ所に集合するよう連絡を取り合っていた時、私に声を掛けてきた方がおりました。                 

 日本航空の結城さんで、日系で、元読売巨人軍のプロ野球選手をされてた方でした。そして、私達グループのハワイ滞在中のことは、全て結城さんにご面倒を見ていただけることになりました。毎夕ハワイの高級レストランや料亭へお招きを受け、大変なご接待を受けました。夢のような毎日でした。実は、私達グループがワシントンD.C.滞在中、ホワイトハウス、議事堂、議会、リンカーンメモリアル、ポトマック河畔、アーリントン墓地、ワシントンの生家(マウント・バーノン)、スミソニアン博物館、同絵画館、水上音楽祭など盛澤山のプログラムがありましたが、その中に、上院議員訪問プログラムがあり、第二次世界大戦中、日系二世で、イタリア戦線で右腕を失った戦士、ダニエル・イノウエ 上院議員(2012年に88才で他界。ホノルル空港の名称が、ダニエル・イノウエ空港になった)の事務所を訪問したことがありました。会見の後、お暇をする際イノウエ議員が私に、グループの日程表を置いていくようにと云われ、事務所の方にお渡ししたことがありましたが、ハワイ滞在中、結城さんから大変なご歓待を受けた訳は、ダニエル・イノウエ議員のご厚意によることでした。


 出国手続きの待合場に居た時です。一瞬、我が目を疑いました。あの5本の「サトウカエデの木」を持って係官が結城さんの処にやってくるではありませんか、そして、私を呼んで木を手渡してくださいました。係官は、「根に土を付けたままでは日本に持ち込めませんので、良く洗って、水草で根の回りを包んでおきました。」「また、植物検疫を済ませ、その印の判を押しておきました。」と言うのです!完璧です。驚きました。

 羽田では、申告書と木とを持って、植物検疫官の処に行きましたが、全くのフリーパスで日本に持ち込むことができました。


5.長野のサトウカエデ -林さんの夢、私の夢-

 長野に持ち帰った5本の苗木は、その内2本を長野市に寄付し、1本は林純勝さんに差し上げ、残りの2本を私の手元に置くことにしました。

 林さんへの木は、飯綱高原の林さんの所有地に移植され、そこにEILの生誕地となる「パットニーの丘」と命名をし、看板を建てて大切に育てられましたが、後日、何者かに盗まれてしまい、今は行方不明です。ただ、その地域一帯が今でも正式に「パットニーの丘地区」として飯鋼の地図に載っています。

 

 私の夢は、林さんの遺志でもありますが、 広く長野県地域全体に「砂糖カエデ」の繁殖地を拡大すること、 長野県をメイプルシロップの産地にし、新しい産業に育てること。(信州名物づくり) また、信州メイプル街道を実現し、秋の一大観光地化を目指すことです即ち長野県の全域に拡大することをめざし、今日迄、様々行ってまいりました。その結果、長野県の東北信と中信地域に約1,000本の苗木を植樹することができましたし、それぞれの木が成長しますとタネが飛びますので、数百年の将来には、林さんと私の夢が現実になって来るものと思います。


6.ホームステイの意義

 ホームステイ運動の生みの親、即ち、国際生活体験運動の創始者、ドナルド・ワット博士の基本的な考え方、思想は次の通りです。

 ある国の国民が異なった国の家族の一員として、親子兄弟の契りを結び一緒に生活をする。お客様として迎え入れるのではなく、その家庭の普段通りの生活の中に一緒に溶け込んで生活をする、そのことにより、人種、宗教、生活習慣、そして政治、経済、ことばなどの違いをのり越えて、互いに理解しあえることが出来る。このホームステイの思想を中心とした国際生活体験の世界組織には一時、世界の60数ヶ国が加盟し、プログラムの付いた世界最大の国際交流ネットワークであった時代がありました。

 長野では、前述しましたように長野市商工部観光課に事務所を置き、当初9年間、官主導で積極的に国際交流活動を行い、そして、1968年に完全に民間に移管しました。入国プログラムに付いては長野市の市報、出国プログラムに付いてはNHK長野放送局のTVとラジオのお知らせ時間のご協力により、毎年、入国者約10名、出国者約10~20名という実績を積み重ね長野地域の国際化に貢献してきました。

 今、市町村や学校その他の団体と、諸外国の友好団体との間でホームステイを通じた国際交流が盛んに行われておりますことは大変有意なことと思います。只、それが単なる民泊になってしまわないよう、ホームステイの理念、思想に基づく国際平和への活動、国際理解への活動の一環であっていただければ、世界の未来は益々明るくなることと思います。ドナルド・ワット博士はその著書の中で “INTELLIGENCE IS NOT ENOUGH” と云っております。  



※1 林純勝:元中尉 横浜球場のスタンド下に設営された東京俘虜収容所第3分所の所長。その後、第13分所,東京本所を経て最後は長野県諏訪鉱山の第6分所。ハイデルベルク・ヘンリーというあだ名をつけられた。林中尉はルイス・ブッシュの『おかわいそうに』 文藝春秋新社 (1956/1/1)にも出てくる。

※2 諏訪収容所:初代所長の林中尉は長野善光寺の僧侶だったが、大森収 容所勤務や横浜収容所所長などを歴任。温厚な人柄で捕 虜たちに慕われ、米軍捕虜から贈られたペナントが善光 寺裏山の万国慰霊堂に祀られている。          



EILでは、16歳以上が参加できる個人ホームステイプログラムを実施しています。

また、ホストファミリーも募集しています。

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​EILの正式名称は「Experiment in Intertnational Living」このサイトは、EILのプログラムを通じて国際交流体験をした人たちを「Experimenters」と称し、その体験やその後にどう活かされたかを紹介するEILのウェブマガジンです。